第80話:カニンヒェンの滅日




燃えている。
私から逃れようとした村人が、誤って倒してしまったランプ。
こぼれ出た小さな火と油は、側の木造家屋にその触手を伸ばしている。
ちろちろと光るそれへ、私は手をかざそうとした。
手は動かなかった。
代わりに、緑色の光のようなものがするすると進んだ。
これが、今の私の体だ。
火は瞬く間に緑の光へ吸い込まれて消えた。
自分の内側で燃え上がる火炎。その熱を感じる。
私は小さな満足を覚えて愉悦に身をよじった。
私がカニンヒェンを襲ってから、まだ20分と経ってはいない。
しかし、もはや村の中に動いているものは皆無だった。
…いや、あと一人。
がたん。
家屋の中で、物音がした。
ペニーの記憶では、これが最後の村人だ。
私はじわりと進み、建物に侵入した。
恐怖に引き攣った顔が私を迎えた。
年老いた男が壁に張り付き、私から遠ざかろうと無駄にもがいている。

───粉屋のロビンソン。

私の中の誰かが言った。

───村の嫌われ者。
───いつもつまらない言いがかりをつけては、隣人をいじめている男だ。
───二晩前には看護婦のペーネグリュエルに家の前を走るなと怒鳴った。
───そして、髪を引っ張った。
───彼女にパン粉をかけた。
───真っ白になったペニーは泣きながら帰っていった。

無数の声。
小さな村だ。村人の全てが男を知っていた。

ずるり。

私は部屋の中に入り込んだ。
かちかち、と。耳障りな音が男の口から漏れている。
私は容赦なく光を伸ばし、男に触れた。

───やめて!

小さな叫びが起こった。
理解できないことだった。

───もうやめて。殺さないで。

ペニーは泣きじゃくりながらそう懇願していた。
殺す?
殺してなどいない。
ただ、私のものにしただけだ。

───同じことだ! 

怒りに満ちた、別の声。
彼女の隣人、ヘリオドールだ。
…そう、同じことかもしれない。
私が喰らったものが外には出ることは、もうない。
食事の対象物は私の一部になるのだ。
「死を迎えた」と言ってもよいだろう。

───私達が何をしたの? あんまりだわ。

この声は肉屋の娘、コーネリアだ。
哀れに啜り泣いている。
彼女の言う通りだ。これはとても理不尽なことに違いない。

───あなたは罪のない命を沢山奪ってしまったのよ。

ペニーの声。
彼女だけではない。
今や、全ての村人が口々に訴えていた。
嘆き。
怒り。
絶望。
呵責。

そうだ…なんという酷いことを…。

───あなたは私達の未来を奪ってしまったのよ…

私は74人の命を。未来を奪ってしまったのだ。
そして、もう元に戻すことはできない。
彼らは私という器に移され、もう外に出ることはできないのだ。
おかしい。
なぜこんなことをしてしまったのだ?
激しい後悔と罪の意識が私をぎりぎりと締め上げた。
おかしい。
ついさっきまで、これこそが私のするべきことだと思っていた。

───こんなことを望んでする人はいないわ…

人?
私は人なのだろうか。

───化け物だ!

誰かが叫んだ。

───違うわ。お願い…手を見て…

ペニーの声。優しい響き。
私は自分の手を見た。
白くほっそりとした手が。小刻みに震えながら、そこにあった。
眼球が熱い…。
私は震える手を自らの顔に当てた。
温かな液体が触れた。
かちかち、と鳴り響いている。この。音。
老人のにごった瞳に何かが映っている。
緑色の髪を持つ、女の姿。

これがか。

───そうよ。それがあなた。

嗄れた悲鳴と共に、映っていた私の姿が消えた。
躓き、よろめきながら屋外に逃げてゆく老人。
私はもう、それを追う気にはなれなかった。
あれほど私を駆り立てていた飢餓感は嘘のように消えていた。
おぼつかない足取りで外に出た私は、村外れの崖に辿り着いた。
ずっと下の方に小さな池が見える。
そこの水が、汚く濁っていることを私は村人の記憶から知っていた。
私に相応しい場所だ。
「ごめんなさい」
最後にそう呟いて。
私は崖から身を投げた。





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