第79話:ペーネグリュエル




緩やかな動きで、暗闇が遠ざかってゆく。
夜明けだ。
やがて、闇の中から浮かび上がってくるもの。
蒼い雲。
深い紫に染まった稜線。
黄色い大地。
少しずつ明るみを帯びて、色を変えてゆくそれらを。
私はぼんやりと見つめていた。
綺麗だとは思わなかった。
ただ、見慣れない風景だと感じていた。
冷えた風が肌を苛み、私は両膝を抱き寄せた。
「あら?」
背後の声が、私を反射的に立ち上がらせた。
同時に、私は今まで腰を下ろしていた場所が固い岩の上であることを知った。
声の主は若い娘だった。
片手に籠を下げ、起伏の激しい黄色い坂を慣れた足取りで昇ってくる。
「先客がいたのね」
私の側まで来て、娘はそう言った。
背に流した藤色の髪が、風を受けて少しなびいた。
痛んだシャツのあちこちに裁縫の痕がある。
山道を登りやすくするためか、長いスカートは洗濯鋏で止められ、膝の辺りまで縮められていた。
明るい笑顔を見せる彼女を。私はただ、ぼうっと見つめた。
「あなた、村の人じゃないわね? どこから来たの?」
私を頭の上から足の爪先までたっぷり眺めてから、彼女はそう訊いた。
難しい質問だった。
どこから?
ここだ。ここにいた、としか言いようがない。
私は首を横に振った。
「わからないの?」
彼女がまた訊いたが、私は黙っていた。
「秘密主義なのね」
悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて、彼女は言った。
それで納得するのなら、そう思わせておこう。
私の沈黙は続いた。
「私はペーネグリュエル。ママは私のことをペニーって呼ぶわ。
 あなたの名前は?」
彼女は右手を差し出してそれを訊いた。
がきん、と頭の中で何かがぶつかる音がした。
組み合わさった何かが、激しく軋みながら動き出し始める。
ガルガンチュア
私は答えながら彼女の手を握り返した。
「厳めしい名前ね」
ペニーはクスクスと笑って手を離した。
「あなた、とっても可愛いのに。名前が不釣合いだわ。
 それに、その服。寒くないの?」
私は言われて、自分の体を見下ろした。
薄汚れた黒い布を継ぎ合わせただけの、簡素な衣類が私の体を包んでいた。
服は肘のすぐ下と腿の辺りでぶつりと切れ、白い肌が露出している。
足元は裸足だった。
「花を摘み終わったら、私の家で温かいシチューをご馳走するわ。
 だから、少し待っててくれる?」
ペニーの言葉に、私はこくりと頷いた。
彼女は黄色い地面に屈み込んで、何事かを始めた。
黄色は、一面に咲き乱れる花の色だった。
ペニーは群生する花の一本一本を手に取り、籠から取り出した虫眼鏡で調べ、
時折根元から鋏で切り落としていった。
摘まれた花が籠に収められていく様子を私は興味深く眺めていた。
「私、あなたも鎖草を摘みに来たんだと思ったわ」
ペニーは虫眼鏡を覗き込みながら私に話し掛けた。
「鎖草の花にはね。縁の白い萼と黄色い萼をつけるものがあるの。
 虫眼鏡で見ないと分かり辛いくらいに、僅かな違いなんだけど。
 白い萼は役に立たないけど、黄色い萼は熱冷ましに使えるのよ。
 私、これを取って村の病院で使っているの」
ぱちん、と花を刈り取って、ペニーは顔を上げた。
「私、看護婦なのよ」
彼女は誇らしげな笑顔を見せた。
作業はほどなく終わり、籠の中は黄色で満たされた。
しかし、目を刺すようなその色を。私は好きになれなかった。
この花は…いらない…。
「さあ、行きましょう」
私の手を取って。ペニーがそう言った。
その時。
きらりと光るものが、私の目を捉えた。
陽の光が硝子玉の中で煌いている。
とても不思議な輝き。
ぞくりとする美しさ。

…欲しい。

途端に。
私は異変を感じた。
体の奥底から爆発的に吹き上がってくる何か。
それは一息の間に私の体を突き破り、獲物を襲った。
「あっ」
悲鳴を上げて、ペニーが私の手を離した。
右の目を押さえてよろめいている。
「何? 見えない」
ペニーの声を遠くに聞きながら、私は恍惚感に包まれていた。
足元をふらつかせて、崩れ落ちた彼女。
それを見ているのは、私の右目。
私のものとなった、硝子色の輝きを持つ、美しい瞳。
ざ。ざ。ざ。
背中を寒気が襲った。
ぶるぶると震える。
畏怖と歓喜。
空を掻く、ペニーの細い腕。乱れ散る藤色の髪。
美しい。
欲しい。

欲しい!

私は凄まじい速度で前進した。
声を上げる間もなく、ペニーの体は光と化した私に飲み込まれた。
彼女の髪、顔、身体、全てが私の内に飛び込んでくる。
どろりとした緑色の輝きがそれを迎え入れた。
私は既に人の姿をしていなかった。
足を使って駆ける必要はない。
形など何の価値もありはしない。
必要なのは目的だけだ。
この猛烈な飢餓感!
満たすものが必要だ。
緑に輝く塊となって、私は斜面を滑り降りた。
この先に、村だ。
村の名前はカニンヒェン。
村の場所がわかる。
ペニーの記憶だ。
そこに次の獲物がいる。
もっとだ。もっと。もっとだ。
もっともっともっともっともっともっと…
食べなければならない。
進まなければならない。
それが目的だ。

私は飢えていた。





NEXT
目次