第78話:マレリィ・バードケージは巨敵に挑む




そろそろと目を開けた私は、自分が見覚えのある場所に立っているのだと知りました。
部屋の中央に丸い広間。その周りを半円形に無数の木製机が囲んでいます。
机の置かれた床は階段状になっていて、部屋の外側に向かうほど高くなっていました。
頭上には彼方の天井。
そこに見える、青みがかった色の液体。
波間に光る、魚の群れ。
液体を通して差し込む白い光。
講義所…。
ここは、『傷痕』で見たあの場所とそっくりです。
「そうではない」
私の表情から考えを読み取ったのでしょう。
ガルガンチュアの声が私に向けて放たれました。
彼女は広間の真ん中に立って、私の方を無表情に見つめていました。
違和感を感じて、私は目をしばたかせました。
ガルガンチュアを覆う漆黒の闇。そして緑の光。
その両方が消え失せています。
彼女は真っ黒な衣服を身につけていました。
胸の前で襟を重ね合わせるような服で、袖先はゆったりと広がっています。
その上には緑色の髪と白い肌が輝いていました。
そして私は、彼女が思っていたよりずっと小柄であることに気がつきました。
小さな肩とほっそりとした首は、随分と華奢な印象がします。
でも私はそれを見て、ぞくりと震えるような感覚にも襲われました。
それが、私の肩や首と寸分違わない形であると、本能的に理解できてしまったからです。
底の厚い履物を履いていなければ、身長も私と同じくらいだったに違いありません。
顔貌だけでなく、彼女の全てが私に酷似していることが感じられました。
「ここが似ているのではない」
ガルガンチュアが言葉を重ねました。
「逆だ。あの『会議場』は、この場所に似せて造った」
私は曖昧に頷き返しながら、自分の中でこの場所の呼称を修正しました。
「ここがあなたの夢なんですか?」
私の問い。
ガルガンチュアは無言で頷きました。
私は改めて部屋の様子に目を向けました。
以前に見た『会議場』と違う点が二つありました。
一つ目の相違点は、それぞれの机に同じ数の椅子が用意されていること。
もう一つは、木製のそれらに腰を下ろしている人々がいること。
彼らは落ち着かない様子で、机に肘をついたり手を擦り合わせたりしながら、私の方を見つめていました。
沈鬱なその顔は、どれも見覚えのあるものでした。
『語る街』の住人に違いありません。
椅子には空席が目立ちましたが、その代わり、床や段差に座り込んだり、
壁際に寄りかかっている人影が幾つもあります。
私から一番近い場所、最も低い段差に私は目を留めました。
並んで腰を下ろし、足をぶらぶらと遊ばせているのは、見覚えのある十人娘の姿です。
彼女達は私に不安に満ちた視線を送っていました。
「連れがいたようだな」
ガルガンチュアが私に言いました。
すっ、と空気が流れて。私の横をプリズマが通り過ぎました。
ガルガンチュアの顔を見ることもせず、彼は何も言わずに部屋の奥へ歩いていきました。
独特のふらふらと定まらない足取りで段差を昇っていきます。
数段目に辿り着いたところで、彼は立ち止まりました。
そこの床に、座り込んでいる男の人の姿がありました。
埃にまみれた細い手足が力なく投げ出されています。
「来たのか」
帽子の影から弱々しい声が漏れました。
それには応えず、プリズマは問いを口にしました。
「グリーン夫妻は?それに、他にも見当たらない顔があるようだけど」
問いを受け、モレクラールは帽子のつばを指先で引き下げました。
「死んだよ」
ぼそりとした呟き。
プリズマは身じろぎせず、少し沈黙しました。
私の位置からは、プリズマがどんな表情をしているのかわかりませんでした。
「そうか」
それだけを言って、プリズマはモレクラールの横に、どさりと腰を下ろしました。
前髪で表情を隠したまま、彼の体は深く沈みこんでいきました。
「クラン…!」
別の場所から、控えめな声が上がりました。
サックスブルーの髪が私の目を引きつけました。
「クラン、こっちに来て」
マレリィが椅子から立ち上がって私を呼んでいます。
私がそちらに向けて歩いていくのをガルガンチュアは黙って見送りました。
マレリィのいる席を目指して段差を昇っていく途中、幾つかの視線と私の視線が重なりました。
不安、恐れ、期待…複雑な感情が彼らの中に渦巻いていることを私は知りました。
顔を正面に向けて、私は部屋の奥を見上げました。
『傷痕』で、私が始めてガルガンチュアを見た場所。闇に包まれた彼女が滲み出てきた、あの場所。
そこに、藍色の大きなものがうずくまっています。
力なく首を垂れ、背中を壁に預けたその姿。
大きく裂けた腹部が、赤黒く汚れています。
『悪魔』が、のろのろと首を傾けて私に顔を向けました。
アプレアギーレンの顔…つるりとした白い面。
それが自らの吐血で黒く染まっていました。
剥き出しにされていた巨大な歯は姿を消しています。
代わりに、薄い亀裂のような唇が戻っていました。
「私を見るな」
ひっそりと。
亀裂の奥から漏れ出たかすれ声が、私のところまで降りてきました。
「私は結局、何者にもなれなかった」
短い言葉でしたが、私はそこから痛烈な自己嫌悪と深い絶望を感じ取りました。
「そっとしておいてやってくれんか」
不意に、耳元で囁きが生まれました。
それで私は、『語る街』もまた、この場に来ているのだと知りました。
「クラン」
もう一度、マレリィの声が私を招きました。
私は顔をそちらに向けて、また段差を上がっていきました。
アプレアギーレンのいる壁際まではまだ遠い場所。
あまり人がいない、空席の目立つ場所。
そこにマレリィがいました。
彼女は私の手を引いて、椅子に座らせてくれました。
「大丈夫?」
隣の席に腰を下ろして、マレリィは言いました。
囁くような、控えめな声。
私はそこに温かさがあるのを感じました。
ふと、あるものが目に入り、私は右手を机の上に滑らせました。
指先が触れたもの。机の隅に刻まれた、小さな文字列。
金を流し込んだそれは、丁寧に彫り込まれた刻印でした。
『ペーネグリュエル』
金色の文字は、そう読めました。
隣に目を向けると、マレリィの前にある机にも、やはり同様の金文字があるのがわかりました。
こちらは『クリスベル』と読めました。
私は体を乗り出して、更に向こうの机や、前後の机にも同じような刻印を探し求めました。
『アイオレイア』、『ヘリオドール』、『コーネリア』。
どの机にも違った文字が刻まれていました。
何か意味があるのでしょうか?
私はマレリィの顔を見つめましたが、彼女は首を横に振って、
唇の形だけで「わからないわ」と言いました。
「さて、これで全員が揃った」
ガルガンチュアの声が、広間の中央で響きました。
私は、はっと身を固くしてそちらを見下ろしました。
「…74人。運命的な数字だな」
ガルガンチュアは誰にともなくそう言いました。
「クランを含めて、『語る街』には99名の住人がいた。
 『語る街』自身も数に入れて、だが。
 祭りの場で25人が死に、残るはここにいる74人…」
彼女の声には、ほとんど感情が感じられませんでした。
何か、遠い過去の出来事に思いを馳せているように見えました。
「74という数字が今、この時に。再び私の前に現れたことを。
 私は強い戒めとして受け取ろう。
 私が為すべきことから背を向けて逃げ出さぬように。
 強い意志を持ち、これをやり遂げるために。
 さて…」
ふっとガルガンチュアが視線の向きを変えました。
「クラン、覚悟はできているだろうな?」
ガルガンチュアは私を見つめていました。
彼女の記憶。そして、私の過去。
それが、これから明かされる。
そして、その後私は彼女に殺される。
私がのろのろと頷こうとした、その時。
「待って」
小さな、でもしっかりとした声音で。それは発せられました。
私ではありません。
声は私のすぐ隣で生まれました。
マレリィ。
彼女は椅子から立ち上がり、固い表情でガルガンチュアを睨んでいました。
「確認したいことがあるの」
マレリィはそう言いました。
ガルガンチュアは、明らかに気を削がれた風でした。
「何だ? 第参格の娘よ」
私と同じ声が、マレリィに問いました。
「クランはあなたと約束したわ。
 過去を教えて貰う代わりに…あなたに殺されるって」
「そうだ」
ガルガンチュアは冷たい声で応えました。
「クランは、その約束を守ると思うわ。
 抵抗もせず、あなたに殺される筈よ」
「それが、クランの選んだ道だ」
「…わかってる」
マレリィは声を掠れさせて言いました。
私は彼女の両拳が、机の上で、ぎゅうっと握り締められるのを見ました。
「そして、『語る街』の人達はクランの記憶を残す為にここにいるわ。
 あなたがそれを許してくれたから」
「半分は、自分達の記憶について、手がかりを期待する心だろうがな」
「…それは当然だと思うわ。
 でも、街の人達は、きっとあなたとクランの間で交わされた約束に、
 立ち入ることができないでしょうね。
 手がかりがクランの記憶から得られたとしたら、この人達はそれを恩義に感じるでしょうし、
 得られなければ、それをあなたに期待するでしょうから。
 どっちにしても、あなたの邪魔はしにくいと思うわ」
静かなざわめきが、周囲から起こりました。
「…何が言いたいのだ?」
ガルガンチュアは困惑した表情で問いました。
私は違うわ
マレリィの、強い意志が込められた声。
「私は街の住人じゃないもの。
 この人達の記憶に関心を持っていないわ。
 だから、あなたとクランの約束を黙って見守る道理はない筈よ」
ざわめきが、少し大きくなりました。
黙れ
びいん、と響く。鋼のようなガルガンチュアの声。
沈黙が部屋に満ちました。
ガルガンチュアは目を細めて、マレリィをじっと見つめていました。
「その通りだ。第参格であるお前に行動の制限はない。
 だが、それがどうしたと言うのだ?」
「私…」
マレリィは何度も口を開閉させて、言葉を搾り出そうとしていました。
「私は…」
彼女は一瞬目を閉じ、深呼吸をした後、再び瞼を開きました。
きっ、とガルガンチュアを睨み、マレリィは言いました。
「私はあなたを倒して、クランを守る
ガルガンチュアは、目を瞬かせて沈黙しました。
「何と」
ようやくそう言った、ガルガンチュアの口元には苦笑が浮かんでいました。
「私に立ち向かうことのできる、何か…。
 秘策か秘術か。
 とっておきのものでも持っているのか?」
からかうような、その声音。
マレリィは首を横に振りました。
「何もないわ。
 私みたいな小娘が小細工を考えたって、きっとあなたには通用しない。
 それに、モレクラールのようにあなたと戦う力も…私にはないわ」
「そうだろうとも。つまり、私の行動を妨げようとするなら、その時、お前は…」
「殺される。…ええ、きっと私は死んでしまう」
「分かっていて、死を選ぶのか?」
「そうなるとは限らないでしょう?
 あなたが私に倒される可能性だって、ゼロではない筈だもの」
「気丈だな。…だが、何故だ? 何故そこまでしてクランを守ろうとする?」
ガルガンチュアは顔に疑念の色を浮かべて問いを重ねました。
「お前とクランのシナプス、それほどに強まるほどの時間と機会があったとは思えん」
「私、クランを守りたいと思っているわ。
 でも、それは自分のためでもあるもの。
 あなたからクランを守ることで、私は過去の私を乗り越えて見せるわ」
唐突に。
ぶつりと会話が途切れました。
ガルガンチュアが眉を寄せて黙ってしまったのです。
探るような視線で、彼女はマレリィを見ていました。
少ししてから、そっと囁くような声が尋ねました。
以前に私と出会っているのか? つまり、ずっと昔に…」
マレリィは答えませんでした。
ただ黙って、燃えるような瞳でガルガンチュアを睨みつけていました。
「…いいだろう。深くは問うまい」
暫くして、ガルガンチュアはそう言いました。
「お前の主張は正しい。
 私がクランを殺そうとするその時、私に立ち向かうことを認めよう」
それを受けて、マレリィは一言だけ答えました。
「ありがとう。闇の王」
小さな声でしたが、ガルガンチュアは確かにそれを聞き取ったようでした。
緑の髪が、さっと振られました。
部屋中を見渡してから、ガルガンチュアはよく通る声で言いました。
「それでは始めるとしよう」
私は、白い腕が真っ直ぐ天に向けて伸ばされるのを見ました。
全ての人が自分に注目したのを見届けてから、ガルガンチュアは、バチッと指を鳴らしました。
途端に。
彼方から降り注いでいた光が弱まりました。
失われる光。押し寄せる暗闇。
数秒と置かず、私は闇に呑み込まれていました。
緑色に輝く髪が、束の間残像として残りましたが、やがてそれも消えてゆきました。



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