第75話:悪姫明眸




怒りに燃える瞳。私を凝視しているのは、もう一人の『私』。
『憎悪する私』。
彼女はゆっくりとドアから離れました。
その右手に揺れるもの。
緋色の灯りを受け、ぎぬりと光るもの。細腕に不釣合いなもの。
私はその形に見覚えがありました。
マレリィの家。キッチンの引き戸の中に、それはいつもありました。
私はそれが、キャベツを刻むために使われるのを何度も見ました。
それが今。もう一人の『私』の手に。
そこに握られているのは、大きな出刃包丁。
揺れる切っ先が、私の顔に向けられました。
「…君は誰だ」
低くこもったプリズマの問い。
「クラン」
『憎悪する私』は、どろりとした声で答えました。
背後で起こる囁き声。大勢の。不揃いな唱和。
「クラン…」「クラン…」「クラン…」「クラン…」
全員がそう言っています。
『憎悪する私』は、プリズマを見ていませんでした。
濁った目で私を睨み続けています。
「憎い…」
地の底から響くような、その声。赤黒い呪詛の声。
「憎い…。オマエが憎い。
 私達をここへ閉じ込める、オマエが憎い。
 自分だけが『クラン』であるかのように振舞う、オマエが憎い。
 永遠の時間に絶望しか見ない、オマエの愚かさが疎ましい。
 自分からは何もしない、人形のようなオマエに苛立つ」
吹き付ける憎しみ。
頬を引き攣らせて。こめかみに青黒い血の管を盛り上がらせて。
憎悪する双眸が、私に迫ってくる。
「死んでしまえばいい」
震える唇が、その言葉を吐き出しました。
「オマエなんか…死んでしまえばいい…」
『憎悪する私』は一歩を踏み出しました。
暴走寸前の殺意。
また、一歩。
恐怖で竦む、私の体。
逃げ場はありません。
「ここは君の夢か。クラン」
ゆっくりとした呟き声。
それを聞きつけ、『憎悪する私』の歩みが止まりました。
血走った眼球が、ぎろりとプリズマに向けられます。
眠そうに目を擦るプリズマ。
「ここは君の夢だな」
もう一度、彼は繰り返しました。
その声は私に向けられたものでした。
同時に私は理解していました。
語る街で見たランプ。マレリィの家で見た居間。私の記憶を元に作られたこの場所。
ランプに燃料が使われていなかったのは、私がランプの構造を知らなかったから。
本が白紙だったのは、私がその本を開いたことがなかったから。
この屋敷は、私の見る夢。
「君達はクランの無意識が生んだ悪夢。そうだろう?」
プリズマが首を後ろに向けて言い放ちました。
「違うわ」
きっぱりと。『憎悪する私』は彼の言葉を否定しました。
「ここは確かにクランの夢。でも私は夢なんかじゃない。
 私は…クラン『だった』もの。そして、クランに『なる筈』のもの」
『憎悪する私』は、そう答えました。
「そこのやつも、向こうのやつも…ここにいる全員が、そう。
 たった一人のクランが、私達全員の可能性を奪ってる。
 私達はクランであることを否定されてしまった。…あの崖の下で。
 あそこに置き去りにされてしまった。
 だから、私はこいつを…この…クランを……」
低く、かすれる語尾。
『憎悪する私』の左手が、ゆっくりとこめかみを抑えました。
限界まで膨れ上がる殺気。
血走った両眼が、狂気の光に彩られてゆきます。
「ぎぃぃぃいいいいいいい!!!!」
突然、『憎悪する私』が頭を前後に激しく振りながら、金切り声を上げました。
「殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺すっ!」
壊れたように繰り返す、『憎悪する私』。
決壊する。抑えていた、荒れ狂う感情。
口をいっぱいに開いて叫び続けます。
「クランを殺して!私は!私が!クランだっ!クランになるんだっ!」
床に舞い落ちる唾液。
出刃を握った右手が、ぐい、と振りかぶられます。
床板が軋んで。
瞬きの間もなく、出刃が私の眼前に迫っていました。
大地を蹴って大きく数歩踏み込んだ『憎悪の私』。
突き出した凶器が、真一文字に私目掛けて伸びてくる。
狙いは両眼の中間点。頭部中央。
恐ろしく直線的な攻撃。『憎悪する私』の、まっすぐな殺意そのままに。

かわせない。

私はそれを悟りました。
どんっ…。
鈍い音。壁に叩きつけられた、肉の音。
しかし、頭蓋を貫く衝撃はいつまでたっても訪れませんでした。
壁に寄りかかっている、『憎悪する私』。
その脇腹に、堅い靴底がめりこんでいます。
伸びきった右足が、『憎悪する私』を壁に押し付けていました。
私と『憎悪する私』。両者の間。
いつの間にか、プリズマがその空間に滑り込んできていました。
ふうっ…と。
緩んで宙へ戻ろうとする、プリズマの足。
大地へ還ると思われたそれは、勢いよく伸びて無防備な肉体に再び突き刺さりました。
「げえっ」
脇腹を二度に渡って踏み抜かれ、『憎悪する私』は鳥のような声を上げました。
今度こそ足を戻し、両の靴底で床を踏みしめて。プリズマが言いました。
「眠い」
その、のんびりとした声。
事実、彼の目蓋は静かに伏せられ、首は頭部を支えかねてゆらゆらと揺れていました。
ぼろぼろと涙を零しながら、『憎悪する私』は燃える瞳をプリズマに向けました。
「…や…やってくれたわね…この…」
辛うじてそれだけを言うと、彼女は胃液を吐きながら激しく咳き込みました。
固く握りしめた右手の先で、出刃がぶるぶると震えています。
青黒い血管が、また一本。『憎悪する私』の額に現れました。
「自分でもわからないんだ。どうして、こんな気持ちになったのか」
唐突な、プリズマの言葉。
「無関心で、無気力で、弱々しく、壊れやすい。硝子みたいな女の子。
 けど、どうして気にかかる?
 母親の顔も知らない僕に、人と同じ感情が生まれるのか?
 わからない。わからないが、僕は…クランに惹かれている」
彼が何を言い出したのか、すぐには理解できませんでした。
『憎悪する私』は脇腹の痛みを忘れたのか、ぽかんと口を開けてプリズマの顔を見ています。
私も同じでした。
「クランのことを理解したいと考え、
 クランのことを守りたいと考えている」
プリズマは目を閉じたまま、のろのろと言葉を続けました。
「この感情を。人は恋と呼ぶだろうか」
奇妙な静寂がやってきました。
私と『憎悪する私』。二対の目がプリズマを見つめています。
いえ、そうではありません。
背中に感じる膨大な数の視線。
全ての『私』がプリズマを凝視して、そして彼の次の言葉を待っています。
プリズマが『憎悪する私』から離れました。
後退したプリズマ。その横顔に。
見たことの無い複雑な感情が渦巻いています。
「不思議なことに」
プリズマの目が、薄く開きました。
その瞳は『憎悪する私』を見つめていました。
そこに灯る困惑の光が、彼自身の感情の迷走を現しているように見えました。
「直情的で、自分本位で、攻撃的で、奔放で。
 これほどまでに荒々しい『クラン』がいるという事実。
 そのことにも僕は強く惹かれている」
『憎悪する私』は、血走った目を大きく見開きました。
胃液で汚れた口元がわなないています。
次の瞬間。
息苦しいほどに満ちていた殺気。それが。
溶けるように消失しました。
『憎悪する私』は、顔を真っ赤にしてプリズマを見つめ返していました。
何か言おうとして、その唇が何度も開いては、力なく閉じられました。
「…ん…う…ん………」
ようやく出てきた声も言葉にはなっていなくて。
『憎悪する私』はそれきり黙ってしまいました。


BGM:追跡するもの
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