第74話:追跡者
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体が軽い。
どこまでも落ちてゆく感覚。
それは、やがて緩やかなものとなって。
私達は終着を知りました。

プリズマが、ゆっくりと立ち上がりました。
下降は完全に停止していました。
階段の上は壁面に遮られ、もうどこへ行くこともできません。
床を軋ませながら降りていくプリズマ。
もう一方の脱出口。
階段の下に、廊下が口を開けて私達を待っていました。
そして、また無数のランプ。
私とプリズマは何も言わずに歩き出しました。
この廊下に終わりがあるのか、ないのか。
私達にわかる筈もありません。
でも、進まなければどこへも行くことはできないのでした。
また実りのない歩みが始まりました。
分かれてゆく廊下、無限に続く曲がり角。過ぎてゆく時間…。

不意に、私は立ち止まりました。
いえ、立ち止まらざるを得ませんでした。
胸を押さえつけられているような、異様な感覚。
額に滲む、冷たい汗。
何かおかしい。
どこかおかしい。
「止まっちゃ駄目だ」
プリズマが側に来て言いました。
私は頷いて、再び歩き出しました。
圧迫感が強くなってきました。
感じます。
刺すような視線を。

視線?

心臓が、どきりと強く音を立てました。
間違いありません。
誰かに見られています。
行く手に現れた角を、私達は黙したまま曲がりました。
じりじりと膨らんでゆく不安。
熱を帯びた視線。
あまりに強い何者かの視線は。感情すら伴って、私の体を焼き始めました。
ああ。
なんという凄まじさ。
そこにあるのは、途方もない大きさの敵意でした。
憎悪、怒り、そして殺意。

殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。
殺す。殺す。殺す。殺す。殺す……

「かなり前からだよ」
プリズマが小さく囁くように言いました。
「ずうっとだ。
 階段のところで振り切れたと思ったんだけど。
 …どこまでもついて来る」
のんびりとした口調。
でも、彼の声は隠しようのない緊張に彩られていました。
「…後ろにいるの?」
私もまた、小声で尋ねました。
「多分ね。姿を見せず、足音ひとつ立てずについて来てる。
 …しかも、さっきより近づいてるみたいだ」
私達は殺意を背に受けながら、どうすることもできずに歩き続けました。
背後のモノは、立ち止まったり、走ったりすることを許しませんでした。
そんなことをすれば、その瞬間に襲いかかって来るに違いありません。
なのに、この殺意は時の経過と共に高まり、肉薄してくるのです。
私は、襲撃が時間の問題だということを悟りました。
激しく、大きく膨らんでゆく禍々しい視線。
それに呼応するように、私達が進む廊下も姿を変えつつありました。
まっすぐに伸びる廊下。その左右の壁に扉が現れました。
近づくにつれて、扉が一対だけではないことがわかってきました。
向かい合わせの扉。少し向こうにまた、二つの扉。
そしてまた、少し向こうにも二つの扉。
気がつくと、私達は無数の扉に挟まれて進んでいるのでした。
どこまでも続く扉の道。背後のモノが持つ異常性を映し出したかのような光景。
圧迫感に耐えられず、私は囁きました。
「どれか…適当なドアを開けて逃げ込んだら?」
「そこが部屋だったら逃げ場がないよ」
プリズマは静かに答えました。
うなじを焼く追跡者の気配が、強く、狂おしく渦巻くのを感じます。
待ちきれないのです。背後のモノは。
乾いた声で、プリズマが私に訊きました。
「例の『彼女』かい?」
私は言葉を返しませんでした。
それは、否定の沈黙。
『彼女』は、それが当然であるかのように私を殺そうとする。
日が昇り、また沈むように。水が低い場所へ流れていくように。
『彼女』の殺意に感じられるもの、それはぞっとするほど冷たい迫力。
でも、今私達に向けられているこれは。全く別のもの。
例えるならば、ドロドロと渦巻く、熱く溶けた鉄。
そして、その残酷な液体は、今私達の上に雪崩れ落ちてこようとしている。
びりびりと、空気が震えました。
全身の毛が逆立つような緊張感。
殺意は今、私の両肩をがっしりと掴んでその爪を食い込ませました。
限界です。

ガチャリ!

背後で大きな音が響き、反射的に私は振り向きました。
もう歩くことはできません。両膝はがくがくと震え、ただその場に立ち続けるだけで精一杯です。
プリズマも硬直して立ち止まっています。
変化は。私達が5メートルばかり通り過ぎた、その場所で起こっていました。
右側の扉。擦れ、軋み上がる蝶番の音。
ぎぃ………ぎぃぃぃ………。
ドアが。こちら側へ向けて、ゆっくりと開いてゆきます。
ぎぃぃぃぃぃぃぃ………。
私達は凍りついたまま、それを凝視していました。
今、私の目は恐怖に見開かれているに違いありません。
ぎぎぎ………。
壁から直角に伸びる位置で、ドアは動きを止めました。
いる…。
ドアの向こうに…。
初めに姿を見せたのは白っぽいものでした。
細長く枝分かれしている何か。
それがドアの縁を押さえた時、私はそのものが指であり、手であることを知りました。
後に続き、ひどく緩慢な動きで、『それ』が姿を現しました。
悪意、敵意。殺意の権化。
それらが形を成したもの。
「うっ…」
プリズマが呻きました。
ドアの陰から現れたもの。
見覚えのある顔をした少女。
頬を引き攣らせ、憎悪に燃える視線を私に放っています。
蜜柑色の髪が、私の目に焼きつきました。
「誘い込めた…」
少女はいやらしい笑みを浮かべて、そう言いました。
その声。その顔。その髪。
そこにいたのは私でした。
後ろ手にドアを閉じ、現れた『私』はこちらへ向き直りました。
その直後、次々に沸き起こる音。音。音。
回されるノブ。軋む蝶番。開かれるドア。
背後です。
もう一度振り向いて、私は信じられないものを目にしました。
彼方へ伸びる廊下。開かれた大量の扉。
ある扉からは一人。ある扉からは数人。
ドアの陰から首を出し、じっとこちらを見つめている沢山の顔。
その全てが『私』でした。




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