第68話:そして道は消えた
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膝に強い衝撃。
涙が滲みました。
行く手を阻んだものは、高さ1メートル足らずの石壁。
痛みをこらえながら、私はそれをよじ登りました。
完璧な青。
あの澄み切った蒼空が、私を迎えました。
眼下には緑の原。そして格子状に広がっている、白い石垣。
振り返って見ると。さっきまで在ったものが、どこかへ消えていました。
森も、庭も…白い壁の家も…みんなどこかへ消えていました。
足を滑らせる直前に見た、白い小石の山。
それが崩れて、芝生の間に転がっていました。
崩したのは私でしょうか。

私は目蓋をこすって、滲んだものを拭い去りました。
ぼんやりとした視界に映るもの。
地平線へ続く、白い石垣。
彼方に見える、小さな動くもの。
…あれはなんでしょうか。
近づいてきます。
石垣の上を。
私の方へと。
近くなるに従って、それの形がよくわかってきました。
人のようです。
ふわりふわりと。雲の上を歩くような。
奇妙な足取り。
俯いた顔を隠して。揺れる栗色の髪。
目の前まで来て、その人は立ち止まりました。
『語る街』の住人。
触ったものを深い夢へ導く、眠りの妖精。
「おはよう」
のんびりとした声で、プリズマは言いました。

…ありえません。

ここは。
この場所は。
ガルガンチュアの記憶。
この人がいる筈がありません。
「どうして?」
私は混乱して呟きました。
「君の方こそ、なんだってこんなとこに立ってるんだい」
プリズマが問い返しました。
その声。
やんわりとした、聞き覚えのある声。
彼は確かに存在している…。
私は祭りのこと、闇の王のこと、『彼女』のことを手短に話しました。
そして。過去を教えてもらうため、ガルガンチュアの提案に従ったことも。
全てを聞き終えてから、プリズマは言いました。
「ここは違うよ。闇の王とは関係ない」
「えっ?」
「ここは『無意識の場所』。
 全てのまどろみが集う場所。
 意識のない者が足を踏み入れる場所。
 君は今、眠っているんだ。勿論、僕も」
それは、つまり…。
「『夢を見てる』ってこと…?」
私は呆然として、呟きました。
プリズマの沈黙が、私の言葉を肯定していました。
そして、深まる混乱。
…わけがわからなくなってきました。
ガルガンチュアは『私の記憶の中へ連れてゆく』と。
『その場所で、お前の過去も見出すことができるだろう』と。そう言ったのに。
なぜ、私はこんな場所に来てしまったのでしょう。
…どうすればいいのでしょう。
「ほんとうに。私、夢を見てるの?」
私は重ねてプリズマに訊いていました。
こくりと頷いて、彼は指先を大地に向けました。
「ここは『白と緑の庭』。
 石垣で囲まれた小さな庭…その一つ一つに、一人一人の夢が入ってるんだ。
 留守の所や、誰もいない所もあるけどね。
 …試しにどこか手頃な所を覗いてみるかい」
彼の声は淡々としていました。
からかう様子や、騙そうという様子は微塵もない…真実の声でした。
そして私は。確認するまでもなく、既にひとつの夢を体験していました。
誰とも知れない天文学者が見る、真理に心砕く夢を。
でも、ここが夢の世界なのだとしたら。
ひとつの可能性があります。
試してみるべき、可能性が。
「闇の王…の…」
私の唇から、言葉が零れました。
「ガルガンチュアの夢は?それもここにあるの?」
「あるだろうね」
プリズマはあっさりと答えました。
「探したいのかい」
彼の声はとても冷めていました。
探す…?
この無限とも思える夢の庭から、たった一つの夢を?
どうやって?
それは…
「あッ」
震える私の声。
思い出した。
言っていた。
ガルガンチュアは。
『初めに見えた方向へ進め』と。
『17番目の入り口だ』と。
闇の王は。確かに道を示していた。
でも…
私は周囲を見渡しました。
どこまでも広がる、同じ光景。
初めに見えた方向なんて、もうわかりません。
初めに立っていた場所だって、ここではないのかもしれません。
ガルガンチュアの指定した夢の場所はもう…。

道は失われてしまったのでした。

薄く冷たい視線を残して。
プリズマが私の横を通り過ぎました。
背を向けたまま、歩き去ってゆく。乾いた足音。
道を失った私を残して。
「場所がわからなくっても…」
首だけを振り向かせて。
プリズマが言いました。
「そこへ辿り着く方法はあると思うよ。…来ないのかい?」




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