第67話:天文学者
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身を起こした私。
目を擦ったのは、在り得ないものが見えたから。

何もかもが変わっていました。
シンプルで、どこまでも青かった空は、薄い水色に無数の雲を混ぜた賑やかなものに。
彼方まで広がっていた石垣はその姿を消して、代わりに深く生い茂るうっそうとした森。
遠くからは野鳥の声。
自然のままに伸びていた足元の芝生は、短く綺麗に刈り揃えられて私の靴底に。
…丁寧な刈られ様です。人為的な…。
そして気がつきました。
その芝生が庭の一部であるということ。
私が庭の片隅に立ち尽くしているということ。
芝生を隔てて10メートルほどの距離。
背の高い、白い建造物が陽光を遮っていました。
木製扉と正面玄関。庭へ降りる、3段ばかりの歪な階段。
日の光を浴びて、ほの白く輝きを帯びている石造りの壁。
びっしりと絡んだ蔓草や苔。
開かれた幾つもの窓。風に揺れる質素なカーテン。
2階と3階に小さなバルコニー。物干し台に洗濯物。
上方に突き出た、幾本もの煙突。零れ出る薄桃色の煙。
…大きな石造りの住居。
私は庭を横切って。
魅入られたように、その建物へと近づいていました。

かりかりかり…。

奇妙な音が、私の足を止めました。
だだっ広い庭の中央。
日当たりのよい、その場所から。音は聴こえていました。

かりかり…。かりかりかり…。

断続的な音。
私を呼んでいるような気がします。
そう思った時にはもう、私の足はそこへ向かっていました。
近づくにつれ、色々な物が私の目に飛び込んできます。
芝生を踏みつけて据えられた、数台の木製テーブル。
折り重なる無数の本。
ポットとティーカップ。飲みかけの紅茶。
三脚で固定されている、歯車を備えた望遠鏡。
椅子に座ってそれを覗き込んでいるのは、錆色の顔をした男の人。
彼は、しきりに望遠鏡をいじり回しています。
音は、小さな歯車がひねられる度に生まれているのでした。
私はその人の背後まで近づきましたが、まるで気づいた様子がありません。
冷めてから、だいぶ経つのでしょう。傍らのポットとカップからは湯気が出ていませんでした。
それは、この人が望遠鏡に夢中になっていることを示していました。
…なんだか、声を掛けづらい雰囲気のようです。
そう思った私は、傍らの卓上に目を落としました。
色々な本が無造作に積まれています。

【量子力学・午後の過ごし方】
【天体観測】
【土から生まれる真理】
【マイスター=マイネット=ヴェーゲンと勇気ある仲間たち】
【光源植物の生態】…

「本を崩さないよう、気をつけて」
鉄をこすり合わせたような声。
振り向きもせず、その人は言いました。
かりかりかり、と歯車の音が続きます。
「1・3・0・9。少女が一人。80019番目の新星。小鹿が1頭…72度…」
不可解な呟き。
「あのぅ」
私はその背に、恐る恐る声をかけました。
ぴたりと止む、音。
望遠鏡から顔が離れました。
長い指が伸びて、傍らの本を掴みます。
めくられるページ。
がらがらがら・・・・
その人の膝の上で。抱えられた天球儀が、ひとりでに回転しました。
反対側の羽ペンを握った手が、その動きを止めて。
彼は球面に何かを書き込みました。
「あなたは闇の王?」
私はもう一度、声をかけました。
「残念ながら人違いだね。…名前はあるかもしれないが、ここでは『ない』。
 名も無き天文学者、というところかな」
こちらに一瞥も与えずに、その人は答えました。
「何をしてるんですか?」
「天文学者がすることはひとつさ」
「星を見ているんですね」
「天体だけじゃない。空の色。大気の成分。雲の形。飛び交う鳥…あらゆるものだよ。
 総合的な観察学だ。
 様々な事象とその関係を探ることができる。
 どこで何が起きているのか。これから何が起きるのか…。
 そこに赤い表紙の本があるだろう。…そう、表紙に金の星が散りばめてあるやつだ」
私は指差された本を手に取りました。
【『賢き人』が説く、空と予知】。表紙にはそう書かれていました。
「それが手引書さ。『賢き人』の構築した理論と概念が、わかり易く書いてある」
ここで、ようやく。
その人…天文学者は私に顔を向けました。
「これはまた。随分と可愛らしいお客さんだな」
かくり、と首を傾けて。天文学者は言いました。
「この『賢き人』っていうのは誰なんですか?」
「偉大なる学者だよ。聞いたことがないのかね」
天文学者の声は蔑みというより、寧ろ意外そうな響きに彩られていました。
「私、昔の記憶がないんです」
「ほぉう。そいつは難儀だね」
「ここで私の過去を教えてもらえるって。そう聞いてきたんですけど…」
「さて」
天文学者は、からからと首を横に振りました。
「私にはわからない話だね」
あっさりとそう言って、その顔は再び望遠鏡に向けられました。

かりかりかり。

再開される、歯車の音。そして呟き。
「1・3・1・5。クマチドリが2羽。小鹿から、野うさぎに…」
私は途方に暮れて、立ち尽くしていました。

かりかりかり。

「ところで、名も知らない君」
天文学者の手が止まりました。
「今、空の真ん中に浮かんでいる雲だが。なんの形に見える?」
私は顔を上げて、天に目を凝らしました。
「林檎です」
私はそう答えました。
「1・3・1・6。林檎が1個…」
天文学者の呟きが続きます。

かりかりかり。

「君は道標を見つけるだろう」
不意に、天文学者が言いました。
「彷徨。戦慄。再会。真実……あっ」
驚いたような声。
「こりゃいかん。引越しが必要だ」
天文学者は立ち上がりました。
「はやく行きなさい。この家は潰れる」
私に向かってそう言うと、天文学者は望遠鏡と数冊の本を抱えました。
家の方へ向かうその背に、私は慌てて呼びかけました。
「どこへ行けば…!?」

背中は振り返らず。
短い答えを返しました。
「来た道を!」




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