第61話:魔鬼跳梁
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絶叫。
苦鳴。
『彼女』の。
全ての声を絞りつくして。
やがて無音に変わる。
それでも、肺に残った残りの酸素を。最後の一滴まで吐き出して。
わなわなと震える。開かれたままの、唇。
そこから、途絶えた声の代わりに、真っ赤な血が溢れ出しました。
両の目から頬にかけて、伝い落ちる涙。
「親もなく、また兄弟もない。世界で単一の、孤独な生命…」
低く、沈んだ声が。広場に撒かれました。
「それを苦痛に感じ、謎とも覚え。ある時を境に、それまでの自分を切り捨てた」
話しているのは、黒い『悪魔』。
「アプレアギーレンとは何者なのか?
 自分を知ることが、生の目的に変わった。…それから随分になる」
ぐい、と動く。アプレアギーレンの大きな左手。
その掌中で、狂ったように悶える白い肢体。
もがき、暴れる『彼女』。
その足元へ、大量に零れ落ちる。真っ赤な水。
るるるる…。
アプレアギーレンの喉から、軽い音が漏れました。
「いいぞ。実に心地よい感触だ。
 肉がはぜ割れ、溢れた甘い血汁が私の手を癒す。
 たまらなく、耐え難く、どうしようもなく、いい」
彼は哄っていました。
歓喜に震えながら。
「この悦びが全てだ。
 自分の素性など、どうでもいい。
 血と悲鳴! 死と恐怖! これが私だ!!
咆哮。
彼は今、一匹のけだもの。
「欲しいものはこの快絶だけ。
 心ゆくまでお前を引き裂き、愉しもう。
 そうだ…もうそれだけでいい。…他には何もいらん」
ぱっと、白い何かが広場の中を駆けました。
幾条もの白く長い物体。
広場の外へ雷光のように奔り、建物や路面に突き刺さる。
その根元は、アプレアギーレンの背に。
ぐわり、と黒い巨体が揺れました。
爪先が地を離れます。
白いものが、彼の身体を持ち上げる…。
「飛ぶ!」
モレクラールの叫び声。
その言葉通り、アプレアギーレンの身体は宙にありました。
その手に『彼女』を捉えたまま。
みるみると高度を上げて、街のどの建物よりも高い場所へ。
巨体を支えているのは、白い翼。
いえ、それを翼と表現するのは誤りかもしれません。
アプレアギーレンの背から生え出たそれは、確かに白い羽毛の集積体でありながら、
全く羽ばたこうとはせず、ただ大地に己を突き立てて主を持ち上げていたのです。
蒼空に向けて、柱のように伸び上がる。8本の翼。
まるで、蜘蛛の脚。
白色の集う場所には、黒い大きな影。
太陽を背にして。

 らるぅ!!

一際大きな吠え声が、私達の耳を打ちました。
ずはっ。
ずはっ。
上空で響く、聴いたこともない音。
ばらばらと落ちてくる、謎の飛沫。
赤黒い。水滴。
これは…上空で行われているのは…
恐るべき破壊。…解体作業。
爆発する、人々の悲鳴。
同時に。

光が消えました。
闇に包まれた広場。
悲鳴は困惑のどよめきに変わりました。
真っ暗な空を埋める。小さな星々。
太陽は消え去り、白い月が中天に懸かっています。
唐突な。夜の訪れ。

ぶちぶちぶちっ。

形容しがたい大きな音が、空の上から聴こえてきました。
そして獣の咆哮。
それを合図に。ばあっと、大量の何かが空を覆い隠しました。
アプレアギーレンを支えていた羽毛。
私は、それがばらばらに砕けて。天に撒き散らされているのだと知りました。
天を覆っていたのも束の間。
羽毛はすぐさま竜巻に吸われたように激しい動きで一箇所に集まっていきます。
それは集合場所で忽然と姿を消しました。
そして、落下してくる巨大な影。
「危ない!逃げろ!」
明らかに手遅れだとわかる、誰かの悲鳴に轟音が重なりました。
勢いよく舞い上がる、破片と煙。
影は広場の端にあるカフェテリアに落下し、
赤い屋根を真っ二つに砕きながらその半身を建物にめり込ませていました。
もがきながら抜け出そうとする巨体は、間違いなくアプレアギーレンのもの。
そして、その左肩と胸を踏みつけ、月光を浴びているのは…『彼女』。
驚いたことに、『彼女』はまったくの無傷でした。
傷を負った筈の大腿、腹部、そして衣服には血の染みひとつ見当たりません。
吐血したばかりの口元も同様で、唇は月の光を受けて、美しく輝いていました。
必死に首を持ち上げようとするアプレアギーレン。その額を。
『彼女』の左の掌が押さえつけました。
「次は、相手をよく見てから喧嘩を売ることね」
侮蔑に満ちた、『彼女』の言葉。
「まあ二度目はないけど」
そう言って、『彼女』は左手をぐいっと押し込みました。
のけぞる形になった、アプレアギーレンの大きく開いた口。
そこから舌と共に、赤黒い液体がごぼりと溢れ出ました。
ばきばき、と屋根の一部が崩れ、アプレアギーレンの体が傾きました。
『彼女』に踏みつけられたまま、崩落する屋根と共に直下の屋台に激突し、
これを粉々に砕きながら黒い巨体は二度目の着地を終えました。
真っ白な歯を血でドス黒く染め、アプレアギーレンは苦悶の声を上げています。
私はその腹部が、真一文字に裂けて大量の血を吐き出しているのを見ました。
彼の苦しみ悶える姿を『彼女』は満足気に眺め、それから両腕を天に向けました。
『彼女』が腕を下ろした時、その手には見覚えのある鋼鉄製の凶器が握られていました。
私の身長の半分ほどもある、巨大なペンチ。
それを『彼女』はアプレアギーレンの首に押し当てました。
彼の首の骨がねじ切られる直前。
『彼女』の傍で、かつん、かつんという小さな音が幾つも響きました。
虚を突かれて、静止する『彼女』の手。
かつん。と、また新たな音。
緩やかな放物線を描いて。落ちてきたのは小さな石。
投じたのは、白い服の少女達。
『十人娘』。
足元の小石を集めては『彼女』に投げつけています。
少女達のか細く小さな手から放たれるその殆どは、
目的の場所に届くことも無く、哀れに地を叩いていました。
でも、その投擲は。次の事態を引き起こす切っ掛けとなりました。
次々に屈み込む人々。
『語る街』の住人。
彼らは立ち上がるとき、小石や木材の欠片を拾い上げていました。
それは、彼らの仲間を助け出すための武器。
『彼女』は人々を見渡して、目を数度瞬かせました。
それから、にっこりと微笑んで。
「やっぱり全員殺すしかないわね」
そう宣言しました。
『彼女』の暗い瞳に危険な光が走った、その時。

「それまでだ」

暗黒の不協和音が、凛と響きました。
そして、目も眩む閃光。





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